横に長い境内の中にずらりと並ぶ仏様。そうです。三十三間堂です。
一度にこんなにたくさんの仏像が見られるのは世界でもここだけじゃないでしょうか。
そして三十三間堂の周辺にも方広寺と豊国神社があり、こちらも見どころ満載です!
それでは三十三間堂の見どころからご紹介します!
- 平清盛と三十三間堂
- たくさんの仏像と1000の数の意味
- 京都に奈良より大きな大仏があった!?
- 歴史が動く大事件の舞台
- 出世のご利益!日本一出世した男を祀る神社
三十三間堂
三十三間堂の正式名称は『蓮華王院(れんげおおいん)』といいます。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の法住寺(ほうじゅうじ)の中心的な伽藍(がらん)でした。
後白河法皇の祈願によって平清盛が私財を投じて1001体の仏像と120メートルにもわたる非常に長いお堂が建てられました。なんとこのお堂は東大寺大仏殿の倍の以上の長さになります!
『三十三間堂』の名前にもなっている三十三間とは、柱の間を33として観音菩薩様が33の姿に自らを変えて人々を救うという教えをあらわしています。
創建当初は朱塗りの外装に堂内は花や雲文様の極彩色で非常に鮮やかに彩られていました。
今も本堂内で色彩の一部を見る事が出来るよ
三十三間堂を建てた平清盛。法皇様の為に建てた訳ではなかった!
三十三間堂を建ててほしいと後白河法皇から頼まれた平清盛。
「法皇様の為に素晴らしいお堂を建てるぞ!」というわけではなかったようです。
この頃、下記の4つの勢力による権力闘争が起こっていました。
- 上皇派
- 天皇派
- 貴族(藤原家)
- 武家(清盛はココ)
2022年の大河ドラマにもなった鎌倉殿こと源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を開こうと動いている時期でもありました。
時代が目まぐるしく動こうとしているまさにその時、三十三間堂は建てられたんですね。
対立していた後白河法皇と清盛ですが、後白河法皇が清盛の義理の妹である平滋子(しげこ)と結婚した為に親戚関係になり急接近します。
滋子のおかげで親しい関係になった後白河法皇と清盛。
法皇は身内である清盛に蓮華王院の建立を命じます。
清盛は『法皇様の為なら!』という表向きの態度とは裏腹に、平家の権力を見せつける為1001体もの仏像と巨大で豪華な三十三間堂を建立しました。
まさに清盛って言う感じだね
清盛は平家の為なら何でもします。
南都焼討ちでは東大寺も焼いてしまいます。
その罰なのか清盛は水をかけても蒸発してしまうほどの高熱に苦しみ壮絶な最後を迎えました。
平家にあらざれば人にあらず
と言っていた清盛。
かなり良い言い方で表現するなら、清盛はものすごい家族思いだったのかもしれないですね!
清盛が亡くなった後、平家の時代は幕を閉じ、清盛の建立した三十三間堂も80年後に焼失してしまいました。
なぜ1000体?ずらりと並ぶ千手観音様。
三十三間堂には正確には1001体もの『千手観音様(せんじゅかんのん)』が安置されています。
千手観音様とは正しくは『千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)』と言います。
1000本の手にそれぞれ眼がひとつあり、多くの持物(じもつ)を持っています。これらはあらゆる手段で人々を救う事を表しています。
三十三間堂には1000体の千手観音立像とお堂の中央に中尊の千手観音坐像があります。
この中尊の千手観音坐像を合わせて1001体になります。
その他にも国宝の二十八部衆像と風神雷神像があります。
千手観音様の数に圧倒されて千手観音様ばかりに目がいきがちですが、とっても見やすい手前に二十八部衆像は並んでいますのでこちらもお見逃しなく!
仏像を一気にたくさん拝観したいと思う方にはベストスポットです!
最近、45年にもわたる仏像の修復が終わり、全ての仏像がお堂に揃いました!
この1000体の千手観音様は皆お顔が違います。
自分に似ているお顔の仏様がいるとも言われているので探してみてはいかがでしょうか!
〒605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り657
方広寺
続いては方広寺をご紹介します。
今は亡き京都の大仏。そして歴史の授業でも必ず教わるあの大事件のきっかけになったあるものが方広寺にあります。
それではいきましょう!!
京都にも大仏があった!仏像を作ったのはあの豊臣秀吉
清盛の時代から時は経ち、今度は戦国時代です。
天下を取った豊臣秀吉は京都の都市改造を行います。
その中で秀吉は『奈良より大きい大仏を造ろう』と言い出します。
そしてちょうど現在の京都国立博物館、豊国神社、方広寺がすっぽり入る程大きな大仏殿が造られました。
そうです!三十三間堂のお隣です。
かなり大きな大仏殿だったことがわかりますね。
という事は大仏様も相当な大きさでした。
奈良の大仏は約15メートル、そしてこちらの京都の大仏は19メートルもあったそうです!
奈良の大仏様を拝観しても驚くほど大きいのにさらに4メートルも大きかったのです!
そして奈良の大仏との大きな違いはこちらは木造だったという事。
木造の大仏に漆喰(しっくい)が塗られている形でした。
木造という事は…そうです、青銅製の奈良の大仏のような強度はありません。
なんと完成した翌年に発生した慶長伏見地震で損壊。
その後も再建されますが、たびたび焼失。そして昭和48年に4代目の大仏が焼失したのを最後にその後再建される事はありませんでした。
残念ですね。一度拝見してみたかったです。
現在は約10分の1のサイズになった大仏様が方広寺のご本尊として安置されています。
大仏は残っていませんが、大仏殿の台座が今も京都国立博物館の北側に残っています。
こちらは南西の角の部分です。
巨大な石が写真に写り切らない奥まで続いています。
台座は何気なく風景に溶け込んでいますので、注意して見てみて下さいね!
大仏繋がりで、ご興味があればコチラもどうぞ!
教科書にも出てくるあの大事件!方広寺鐘銘事件!
方広寺には大きな大仏がありました。
そして同じくとても大きい鐘も!こちらは現存しています。
写真ではサイズ感が伝わらないのが非常に残念ですが、普通サイズの梵鐘を見た事がある人は「なんじゃこりゃ!?」という思うレベルで大きいんです!
高さが約3.3メートル、幅が約2.9メートル、そして重量はなんと約64トン!!
ゾウさんが13頭ぐらいです!!!
ちょっと分かり辛かったですね(笑)全く想像もつかないほど重いです!
そんな巨大な鐘から大事件が起こります。
創建以来、地震や火災で崩壊してしまった大仏殿を秀吉の息子の豊臣秀頼が再建します。
その際に上記の大きな巨鐘を鋳造(ちゅうぞう)します。そして鐘銘(しょうめい 鐘に刻み込まれた文字)に徳川家康が言いがかりをつけます。
『国家安康(こっかあんこう)』家康の名を二つに分断している(「安」の字が「家康」の名前を切っている)
『君臣豊楽(くんしんほうらく)』豊臣の幸福を祈念するもの
家康は『これは徳川家を呪っているのだ!けしからん!!』と言いががりをつけたのです。
本来の意味はこちらと言われています。
『国家安康(こっかあんこう)』国家の安泰を願う
『君臣豊楽(くんしんほうらく)』君主も臣下も皆豊かで楽しく
そしてこの言いがかり事件をきっかけに『大阪冬の陣』が起こり、豊臣家は滅びてしまいます。
家康は豊臣家を何とか滅ぼして自身が天下を取ろうと思っていたので、「これは使える!」と利用されてしまったんですね。
この鐘銘は歴史の重大な事件の1ページのきっかけになってしまいました。
ですが、徳川の世の始まりでもあります。
歴史の背景を思い浮かべながら是非こちらもご覧になってください!
方広寺
〒605-0931 京都府京都市東山区茶屋町527−2
【じゃらん】国内25,000軒の宿をネットで予約OK!2%ポイント還元!豊国神社
その名の通り豊臣秀吉を祀った豊国神社の総本山です。
農民の出身でありながら一代で関白まで登りつめた秀吉。
豊国神社は『出世開運』『良縁成就』のご利益があると言われています。
こちらの豊国神社も元は先ほどの方広寺の境内でした。
家康が天下を取った後には社殿は朽ち果てるまで放置されるなど数奇な運命をたどります。
大政奉還後、明治政府は荒れ果てた豊国神社の再建を命じます。
こちらの立派な唐門は南禅寺塔頭の金地院にあったものを豊国神社再建にあたり移築したものです。
宝物館には秀吉の『歯』が収められており、こちらから秀吉がO型という事が分かったそうです!
せっかくなら社殿だけではなく宝物館にも足を運んでみて下さいね!
〒605-0931 京都府京都市東山区茶屋町530
あとがき
今回は三十三間堂と周辺の見どころとして方広寺と豊国神社もご紹介しました。
歴史が大きく変わった重要な場所でもあります。歴史を学ぶのにうってつけです。
徒歩で周れる距離なので、良かったら周ってみて下さいね!
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