【新選組】を知る!オススメスポット5選!!

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    京都は長い歴史の中何度も激動の時代を経てきていますが、私たちに一番近い激動の時代といえば『幕末』ですね。

    歴史の大転換機で都(みやこ)も京都から東京に移ることになりました。

    そんな時代に必ず聞く【新選組】

    彼ら新選組とはどんな人物の集まりだったのか。そして今でも現存する新選組に関するスポット5選をご紹介します!

    ・新選組誕生の地、壬生に残る屯所『八木邸』『前川邸』

    ・京都で栄えた花街『島原』と新選組

    ・新選組ゆかりのお寺『壬生寺』

    ・新選組にとって都合がよかった!?西本願寺『太鼓楼』

    目次

    新選組の歴史

    言わずと知れた【新選組】は江戸時代末期の『幕末』といわれた時代の大転換期に京都の治安維持活動や尊王攘夷派の弾圧にあたった浪士の集まりです。

    新選組は非常に人気が高く、2004年にはちょうど昨年話題になった大河ドラマ鎌倉殿の13人の脚本を手掛けた三谷幸喜さんによる初の大河ドラマ作品新選組!が放映されたり、2021年にはは司馬遼太郎のベストセラーを原作にした燃えよ剣も放映されています。漫画銀魂でも真撰組が登場しますよね…笑

    何度も書籍やドラマ、映画の題材にされ人々の心に残る新選組の歴史。

    それでは新選組の歴史も交えながら歴史を辿っていきましょう!

    見どころいっぱいな新選組の屯所【八木邸】【旧前川邸】

    八木邸

    こちらの八木邸は新選組が結成された場所です。

    幕末、京都は暗殺や強奪が日常化して非常に治安が悪化していました。そのような状況の中、第14代将軍徳川家茂(いえもち)は孝明天皇(こうめいてんのう)から上洛を打診されます。

    そこで将軍後見職の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)や政事総裁職の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が、京都の治安維持などを目的に京都守護職を新設することを決め会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を京都守護職としました。

    そして将軍警護の為に江戸で浪士を募集し、234名の浪士たちは京都壬生に向かいます。

    新徳禅寺(新徳寺)

    京都壬生に到着した浪士たちは本陣の置かれた新徳禅寺で浪士組の中心人物であった清河八郎(きよかわはちろう)の演説を聞きます。内容は『本当の目的は将軍の警護ではなく江戸に戻って尊王攘夷運動に身を投ずる事だ!』というものでした。

    尊王攘夷(そんのうじょうい)とは天皇を敬い、外国人を日本から追い払う事。天皇を敬う「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き活発な尊王攘夷運動へと展開していきました。

    清河八郎は文武両道で有名でした。きっと演説の内容も心を動かすことの出来るものだったのでしょう。220名もの浪士が清河八郎の意見に賛同します。

    ですが、この演説に反対したのが下記の13名の浪士たち。

    【近藤一派】近藤勇(こんどういさみ)・土方歳三(ひじかたとしぞう)・沖田総司(おきたそうじ)・永倉新八(ながくらしんぱち)・山南敬助(やまなみけいすけ)・原田佐之助(はらださのすけ)・藤堂平助(とうどうへいすけ)  

    【芹沢一派】芹沢鴨(せりざわかも)・平間重助(ひらまじゅうすけ)・新見錦(にいみにしき)田中伊織(たなかいおり)・井上源三郎(いのうえげんざぶろう)・野口健司(のぐちけんじ)・平山五郎(ひらやまごろう)

    こちらの13名が京都に残り、松平容保の承認を得て会津藩お預かり(非正規雇用)という身分になりました。宿所が壬生村であったことから壬生浪士組と名付けられ、これが新選組の前身となります。

    その後、壬生浪士組は隊士を募集して会津藩のもとで治安維持にあたります。そんな中、京都で1863年8月18日にクーデターが起こり壬生浪士組は功績をあげます。この功績によって会津藩から新選組という名を与えられる事となりました。

    新選組の誕生です!

    新選組の筆頭局長(リーダー)は水戸藩出身の芹沢鴨。局長に芹沢派から同じく同郷の新見錦、そして近藤派のリーダー近藤勇が選ばれます。

    ですが、この芹沢と新見が酒癖、女癖が悪い上に金を貸さない商人の店に火をつけてしまうなど荒っぽく、素行の悪さが目立ちその苦情が会津藩の耳に入るまでになりました。

    困った会津藩は身内である新選組に処分を命じました。まずはじめに芹沢の右腕的存在の新見を切腹させたといいます。

    芹沢鴨が最後の夜を楽しんだ花街、島原の【角屋】

    島原にある角屋

    新見が切腹した10日後、新見の同郷でリーダーでもあった芹沢は島原にある角屋(すみや)で会合を行い、その後はそのまま宴会になりました。芹沢は豪快に酒を飲み酔っ払います。

    角屋は宿泊する事が出来なかった為、一緒に酒を飲んでいた平山五郎平間重助と共に屯所の八木邸に芸妓を連れて戻ってきます。

    この八木邸でも芹沢はさらに酒を煽り、泥酔状態で床につきます。

    角屋に残る石碑

    その夜、芹沢は妾のお梅、平間、平山と島原から連れてきた芸妓2人と6人で横になっていました。

    大雨が降る真夜中、突然数人の男たちが芹沢たちの寝ている部屋に押し入り、平山と芸妓一人、そしてお梅の3名は即死。

    芹沢は命からがら隣の部屋に逃げ込みますが、文机につまずき転んでしまい止めを刺されました。

    八木邸ではその時の文机と有名な刀傷を目の前で見る事が出来ます!

    建物内は撮影禁止なので写真はありませんが、是非訪れてみてみてくださいね!

    ちなみに、一緒に横になっていた平間ともう一人の芸妓はこの混乱の中八木邸を去ってからは消息不明になったそうです。

    この芹沢暗殺事件は当時長州藩士の仕業とされていました。その為、新選組局長の近藤は芹沢と平山の葬儀を盛大に行なったといいます。

    ですが、先ほど述べた通り会津藩からのお達しもしくは新選組内の派閥闘争か。暗殺の実行は土方、沖田、山南、原田と言われていますが、確たるものはありません。そこがまた歴史のミステリー。想像力を掻き立てますね!

    この二人のお墓は壬生寺に今も残っています。他の隊士のお墓より見た目が新しいのは芹沢をよく思わないのちの人々によってお墓が削られたり壊されたりしてしまったからだそうです。

    こちらが当時の隊士たちのお墓
    こちらが芹沢と平山のお墓

    とっても素敵なガイドさん

    八木邸ではガイドさんが新選組の話やお部屋の説明などを行なってくれます。

    何名かガイドさんがいらっしゃるそうで一緒にガイドツアーに参加されていた方は4度目の訪問だったそうですが、毎回様々なガイドさんから新たなお話が聞けて楽しいと仰ってました!

    『あなたが座っているそこ、そこに芹沢が横になってたんですよ〜』

    『このお部屋ねぇ、当時は血飛沫が天井まであって奥さんが嫌がって塗っちゃった(血を隠すために色を塗り直した)んだけど、後々こうやって公開するならそのままにしとけばよかったなんて言ってたみたいですよ』

    なんてとってもフレンドリーにお話ししてくれました。

    見学が終わった後には八木邸のお隣にある京都鶴屋さんでお抹茶と屯所餅がいただけます。(こちらの京都鶴屋さんは八木家のご子孫のお店です)

    美味しかったです!

    八木邸と共に新選組の屯所となった【旧前川邸】

    旧前川邸

    八木邸の向かいには八木邸と同じく新選組の屯所となっていた旧前川邸があります。

    土方はこの前川邸の蔵の二階で島原角屋から帰ってきた芹沢の暗殺の機会を伺ったといいます。

    そして池田屋事件の重要人物である古高俊太郎への拷問が前川邸の土蔵で行われたりしました。

    たくさんの新選組隊士も殺害、切腹が行われています。

    こちらは現在一般住居になっており見学は出来ません。

    ですが、土日には玄関を開放して新選組や旧前川邸のオリジナルグッズを販売しています!

    旧前川邸のホームページでは普段見る事の出来ない貴重な建物内部の写真を見る事が出来ます。

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